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2017年6月

6月の森

 

 今日は山開きの日だけど朝から雨交じりの冷たい風が吹いて気温も上がらない。たぶん山は寒くて風も強く視界も悪いだろう。去年も一昨年もいい天気で稜線歩きは気持ちよかったけど今年は仕事の中身が変わったので山開きには行かない。頂上から見下ろすモコモコとした麓の森を歩き回るのが新しい仕事で、山登りとは違う楽しさがある。といっても山登りのようにはっきりとした道はないのだ、奥まった林道に車を止めると沢を渡り笹薮や土つきの滑りやすくて急な斜面を登ったり伝い歩いたり下ったりする、尾根筋をいくつも越えてまた沢を下る、荷物もたくさんあって腰には鉈鋸や巻尺やスプレー缶、ビニールテープなんかぶら下げ、肩には輪尺という木の直径を測る大きなノギスのようなものを掛けて背中のリュックには飲み物や雨具やタオル、予備のスプレー缶とかそのときそのときで必要なものを詰め込んでいる。おまけにコースによっては赤白のポールを持ち頭にはヘルメットを被っている、ヘルメットはどんな作業のときでも着用しなければいけない、こういう弁慶さんみたいな格好でときには3時間も4時間も森の中を歩き回るのだからハードといえばハードだがそれが毎日繰り返されるわけではなく、林道のパトロールやあちこちに立てられた看板や標識の汚れ落としといったのんきな作業だけで終わる日もある。

 

 弁慶さんみたいな格好でいったい何をしているのかというとこれがひと口ではなかなか説明できない。森の中を歩き回るのもちゃんと作業目的があり、その目的によって持ち物は変わる。順番に説明するとまず、国有林というのはすべて住所表示がされている。人間の住所と同じで何丁目何番地の何号という区分が完ぺきにできていて専用の地図もある。地図にはそれぞれの区分ごとに植生が記入されている。針葉樹なら杉なのかカラマツなのか赤松なのか、植林の森なら植えられて何年になるのか、もちろん広葉樹の森も区分されているがさすがにこちらには樹木の種類までは記入されていない、そのかわり250とか300という数字が書いてあってこれは平均樹齢のこと、だから植林された森に比べれば大きな数字が並んでいる。この地図は慣れないと読むのが難しくて一般道や建物や川なんか色分けされてないし大ざっぱな扱い、そのかわりすべての林道や枝分かれする作業道、区分ごとの境界や尾根筋、沢筋は明確に扱われていてしかも大きい。わたしの担当エリアの地図は畳一枚近くもあって折りたたんで車に積んでいるが持ち出し禁止、コピーも禁止されている。森を歩くときには森林官(こちらは正職員)がその日のエリアの拡大コピーをくれるが等高線と沢筋、尾根筋はわかっても山に入れば番地表示がぶら下がっているわけでなし、目印の建物や信号があるわけでなし、すべての樹木は入り組んで混然としているから現在地がなかなかつかめない。

 

 しかし専用のアプリがあってスマホよりひと回り大きなタブレットを見ればすべての区分の境界と現在地がGPSでわかるようになっている。森林官はそれを見ながら目的地に近づくのだけどアプリ上の境界線がいくら明確でも現実の山は入り組んでいるし数十年も経過した植林地には実生の樹木が育ったり倒木や枯れ木もあるからしばしば判断に時間がかかる。でもとにかく目的地、つまり住所表示に該当する一画に着くことはできるのだ。作業はそこから始まるが、いま多いのは収穫調査と呼ばれる作業。たとえば40年前に植えた杉やカラマツがどれだけ育っているかを調べる。標準的な生育状態の場所を選んで20メートル四方くらいの区画を決めてその中の木をすべて計測する。太さと高さと木の種類、用途も判断する。良質な材を取れるかパルプにしかならないかといったことだが弁慶の持ち物はそのときに使う。ほかにもいろいろな作業があってたとえば十分に育った樹木を伐採する場合は業者を案内するし、若い植林地では苗木ごとの生育状態を詳しく調べてデータを取り、苗木の産地の適性を判断する。わたしはただの非常勤職員だから森林官の指示通りに動き回るのだが歩いたり担いだりの苦労は同じでしかも深い山の中で一緒に過ごす時間が長いとある種の連帯感は生まれてくる。まだ30代の森林官は年寄りに気を遣い危険な作業は自分で受け持ってときどき境界確認のために急斜面に姿が消えたりする。「これくらいの斜面、昔は息も切らさずに登れたのに」と思うことも多いがまあ、こっちがケガでもして歩けなくなったらお互いピンチに陥るからムリはしない。

 

 森林限界を突き抜けて高い山に登る爽快さはないが、森歩きには不思議な楽しさがある。見通しも悪く、方角もわからず、目的地すら判然としない森を歩いていると迷子になったような心許なさが生まれるがその感覚が懐かしいのだ。もちろん一人きりになることはなく、ほとんどの作業は2人か3人で組む。だから不安を感じることもないが、2人だろうと3人だろうと広い森の中で人間はちっぽけな存在で二本足のひ弱な生きものでしかない。あっちにうろうろ、こっちにうろうろしながら歩いていると圧倒的な森の力に翻弄されて浮遊感すら生まれてくる。その感覚が楽しいのだ。歩き始めたばかりの幼児にもきっとそういう感覚はあるはずでもしかすると森で感じる懐かしさの正体は体の奥深くに眠り込んでいた柔らかい感覚に出会うことなのかもしれない。

 

 わたしが好きなのはモザイク模様に広がる針葉樹の植林帯を包み込む保帯と呼ばれる森で、ときどきブナやミズナラ、クリや桂や栃のとんでもない巨木が残っている。そういう巨木を見ると「これは人間が何百年も守ってきたのだな」と思う。厳密な意味での原生林は自然保護地域の限られた範囲にしか残っていなくて広葉樹の森のほとんどはかつて伐採された樹木が更新された二次林なのだから保帯にも巨木は残らないはずなのに森の霊気をまるごと閉じ込めたような木が残り、それが目印となって同じ区画に入るときには順路の記憶が蘇る。樵たちが「これは切らない」と決めれば次の世代の樵もその意思を受け継ぎ巨木は残される。保帯はなだらかな尾根筋に広がることが多いから針葉樹の収穫調査は保帯をめぐる森歩きにもなる。緑の鮮やかないまの季節、広葉樹の森は明るくてきれいだ。いくつもの沢や尾根を越えてたどり着く保帯の中にはここが深い森なのだということを忘れさせる伸びやかさがあってしかも平坦、藪も笹もなく歩きやすくて「ああ、こういう森が広がればクマも里になんか下りてこないだろうに」と思う。

 

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 根元の直径が2メートル近くもあるこのブナには人間が1人、立ったままで入れるような大きな洞があった。後姿は若い森林官のSさん、弁慶の荷物を腰や背中にぶら下げている。この日の作業は山見と呼ばれるもので本格調査の前にエリア全体を歩いてテープやスプレーで目印をつけ、つぎに訪ねるときの最適な順路を決める。いちばん森の中をうろうろする作業だけどそれだけに何に出会うのかわからず面白い。もう山菜の季節は過ぎてしまったが先日までは足の踏み場もないほどシドケやアイコの密生する沢筋を歩いていた。つつじが終われば森は白い花があちこちに咲き、その名前を一つひとつ覚えていくのも楽しい。めったに更新しなくなったブログだけど、リュックには記録のためのカメラを放り込んでいるからわたしが気づいたこと、忘れられないことをときどきこうして紹介してみたい。 

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